web漫画公開している「むら」です

ここネタ帳よ!!!!!!!!!!!

漫画をかいてる皆様へ★むらからの有難きお言葉です。

ひとつ、長々とたとえ話をしようと思う。

 

 

「死にたい」・・・と人はよく思う。
「なんか食いたい」・・・と人はよく思う。


「人は」って書いたけど、実のところ、自分が一番よく考える二大思考がこれだ。


特に眠る前、疲労している場合にこういった思考が増える。
今回は、この思考が意味するところについての考察をする。

 


「死」・・・
完全に物理的に考えるとするならば、例えば縊死といった方法がある。
まあ詳しいことはwikipediaにいっぱいかいてある。
ようするに、縊頸、頚椎損傷、頚動脈洞反射による意識の喪失などによって死に至る方法とある。

 


そして、死ぬことによって、その後どうなるかということは諸説ある。
宗教的な意見もさまざまだ。

 

「死期が早まるかどうかという問題に過ぎず、その後キリストの救いを受け容れるか拒むかによってチガウ」
「仏教に於いては断食などで自殺するのは禁じられてはいない」
死後の世界も様々・・・天国、地獄、大地獄・・・(てきとう)

自殺後の世界観は否定的なものが多いイメージが、なんとなくある。詳しくないし、具体例が・・・

 

 

で、そういったことをやりたいの?天国とか地獄とかに行きたかったの?ということだ。
それによって辿り着いた地ですらプリンの海だったらどうするの???(?)

 

 


いやっ・・・ソコまでは考えてなかったな・・・(焦)
そ、そんなに深いイミで発したわけじゃ・・・・・・


死ぬことによって、なんらかの結果になることを期待したのであるから、死にたいという言葉を発したことは、まず間違いない。
では、その結果というのは、どのような結果なのだという話である。

 

 

 

死にたい・・・と思ったとき考えるべきコトは、まあ深刻でも深刻でなくてもいいが、「どういった結果を望んでいるのか」ということである。

 

 

 

 

 


99%の人間がそうであると思う。
ずばり、「苦しみからの解放」である。

 

そう、現状が苦しくてたまらない・・・疲労、借金、うつ、賢者タイム・・・と。(深刻度がまるで違う)
そういったものから逃れたいという願望が、かの「死にたい」という言葉には込められている。

 

 

 

結果論的にいわせてもらえば、「じゃあさ、苦しさがなくなればいいんでしょう??」ということになり、その過程である縊頸だの頚椎損傷だの頚動脈洞反射による意識の喪失による死といった過程は、別に必要性無いじゃん!ということになるのである。

 

 

まあ、死以外選択肢がないといった場合に人は死ぬんだと思うが、疲労とかが原因と思うんだったら、その解決方法というのは多岐に渡るではないか?
・・・てゆうかぁーこんな長文じゃなくても、早い話が「疲れを取る方法について考察していきます!」にすりゃいいじゃん!ばか。

 

 

 

しかし、これは陥りがちな罠でもある。
なかなか、苦しみを表す言葉が思いつかない。しかし、とても苦しい・・・
そういったとき、「死にたい」という言葉は発せられる場合がある。


そして、そういった言葉に絡めとられる危険性について指摘しているのである。

 

たとへば、物理的借金苦、恐ろしい身体的疾患、そういったなすすべのない事象は、選択肢として「死」を考える場合もある。
物理的障壁には、物理的制裁というワケである。

 


しかし、これがたとへば精神的なものである場合はどうか?
彼らを肉体的に縛るものはなにひとつとして、ないであろう。
考え方ひとつの問題である可能性がある。
そういった場合、物理的「死」が、果たして最も効果的であるといえるのであろうか・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・・・・・・話がこじれちゃったけど、次に、「食べたい」という欲望について触れるが、これはワタシの場合は、苦しみからの逃避に端を発している。
「食べている」ときは快楽を得ることができるのでありその間は苦しみを忘れていられる。
しかし、結果としてはおなかいっぱいになってなんか気分わるくなって、おわり的な結果におわる。

 

 

 

そう、「死にたい」「食べたい」は実のところまったく同じ感情が元となっているのであり、それは一言で言うと、「苦しみからの解放」なのである。
それどころか、ある一定の「快楽」すら求めている。

 

そして、それらを求めるために生まれし脳内回路というものが、「食べること」「死ぬこと」であったというわけだ!!!
一言で言うと、「無駄」に尽きる!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

欲求の発露を、より高等な段階へ

 

 

 

やっと本題だ。
食べてばっかりでは太るというただそれだけの話なのだ。
食べる・・・これほどまでに簡単に快楽を得られる行為というものが、あるか?


飲酒、パチンコ、性行為、オナニー、マスカキ、センズリ・・・
こういったものに逃げるのは、実に簡単だ。

 

その行動自体、快楽に直結しているのであり、ヤレバやるほど行動は強化されていく。

 


正の強化的な、ナニカである。
オペラント条件づけ的な、ナニカである。(難しい言葉を使ってみたかっただけ)
サルにオナニーを教えるとなんちゃらかんちゃら的なやつである。

 

 

しかし、とある行動→報酬みたいなことを学習すれば、行動が強化されるということが判明した。
そのとある行動をだな・・・漫画を描くことに費やそうぜ?という話なんだよ。

 

 

 

 

漫画より文章を書くのが楽と感じる理由について

ワタシにとって、漫画を描くことは楽しみというよりかは苦行に近いですね。

自己表出を目的としているのであり、それならば漫画をかくより漫画論を認めるほうがよっぽど、楽です!

実は記事を作るとき、推敲とかなんにもせず、3分くらいで衝動的にかいています。

文章家になったほうがよいのでしょうか??????????

 

 

 

「自己表出」・・・

それは、言葉であり、ダンスであり、絵画であり、音楽であるわけだが、そのうち一番「楽しい!」と感じるのは、その人にとって、もっとも手足に近いと感じるものなのです。

 

 

漫画をかくのが楽しくない・・・というのは、そういった自己表出方法を手足を動かすかの如く使いこなせていないから。

早い話が、漫画の本質といったものを、自分なりに解釈しきれていないのでしょう。

 

 

 

そして「漫画をかく」・・・

この言葉はあまりにも大雑把です。もっと分解できます。

「人を描く」がそうだし、もっと分解すれば、

「曲線を引く」ということになります。

 

 

 

その曲線ひとつとってみても、「自己の表出の方法」というのは、あるんだ。

そこらへんを疎かにして、ただ曲線を引くという行動をとり続けても、やがて億劫になっていく。ただただそれだけなんです。

 

 

 

そう・・・漫画を生きがいにしたい。

いや、漫画だけではなく、なんらかの高等な技術をモノにしたい・・・

というのであれば、それを手足の如く、言語を操るが如く、体系化していかなければならない・・・

 

 

そして、そうやって体系化された自己表出を行うことによって、人は苦しみの発露というものを行い、開放されていく・・・ということをここでは説いている。

 

 

 

要は、「思索」なんです。

手塚治虫が、漫画の描き方を記した本があり初心者には大変わかりやすいとはおもうんだが、あんな方法論、まだまだまだまだ大雑把だよ。

漫画をかいてれば、そのうちさらにもっと深い悩みがやってきます。

今日はこれをいおうとおもいました。

★以上です☆(なんなんだよ)