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ここネタ帳よ!!!!!!!!!!!

かくてカオスはコスモスに

そもそも、なにかを勉強するという時には、「言語」によって書かれた書物を読み解いて勉強するという方法が一般的なのである。

 

 


しかし、そもそもとして、「言語」とは一体なんなのか。
というか、「言語」っていう定義自体、先人が作ったものだ。

 

 

 

人は、自分の認識によってしかモノが見えない。
限りなく客観的に近いものの味方などもあるが、やはりそれは、近いというだけである。

 

 

客観的なものの見方というのは、ありとあらゆる場面で求められる。

 

 

しかし、私は考える。
「そもそもとして、自分自身による認識しか行えないんだから、それ自体を高めていく必要があると。」

 

 

 

 

主観的な物の見方でよいのだ。
しかしどのような主観的な物の見方がよいのかということだ。
要は、中身だ。

 

 

まず、私自身は「言語」をどのようにして認識しているのか。
言語というのは、たとえば「りんご」という言葉を聞くと、りんごのさまざまなものがいっきに思い浮かぶ。

 

 

「映像」、「味」、「香り」・・・

 

 

りんごと一口に言っても、そこにはさまざまな情報がつまっている。
その情報は、限りなく細分化することができる。

 

 

たとえば「りんごの色」という言葉、「色」といっても、どのような状態のりんごの「色」なのか、そしてりんごのどこの部位の「色」なのか、どのような環境において見える「色」なのか。
どのような構造の目によって見えた「色」なのか。

 

 

しかし、細分化にはキリがない。
カメラには、ピントを合わせる機能があるが、それは、言語においても同様である。


どこにピントを合わせるのか。どこからどこまでひっくるめるのか?

 

そして、それをひとまとめにして発するもの。それが「言語」であると、私は思う。

 

 

 

 

しかし、現在まだまだ言語というのは曖昧で、発した人によって意味が微妙に違うのは確かである。


それによってすれ違い、誤解なども引き起こされるのである。

 

 

しかし、完全に言語とは何か分断するということもまた、不可能なものである。
それゆえ、言語が曖昧だということは避けることができないことなのである。

 

 

 


ていうかさ、りんごを表したかったんなら、「りんご」という言葉でなくても、写真でもよいわけじゃん。


つきつめて考えれば、「写真の羅列」
これだけでも意味は通じそうではないか?
なぜ、わざわざ「言語」を使うんだろうか。

 

 

 

 

昔、写真はなかった。だから、誰でもできるどこでも表せるカンタンな記号のようなものが必要だったのでは・・・

しかし、その記号を目にしたとき、「その記号の構造を認識」→「その記号の意味を認識」→「連想」というプロセスを経ているはずだ。
このプロセス、写真を目にしたときは引き起こされるものなのかしら?

 

 

 

「その記号の構造を認識」
実は、文字というのは、その形はこだわらなくてもよい代物だ。
フリーハンドでも、印刷されたものでも、人はそれが何を意味しているのかを理解する。

 

多分、その「構造」によって、人々は理解しているんだ。

 

しかし、構造と形・・・これらは、それぞれなにを意味しているんだ。という話である。

 

 

まず、「+」があるとする。
同じ長さの横に引かれた線と、縦に引かれた線が、中央にて交わっている。

しかし、例えば、横線の太さが多少変わろうが、多少曲がっていようが、多少長さが違っていようが、多少角度がついていようが、多少位置が違っていようがある程度ならば、人はこれは「+」だなと認識する。

 

 

・・・が。
これが行き過ぎると。例えば「+」の横線の位置が上に行き過ぎると、この記号は、「†」へと変貌するのである。

これは、「†」というものが一つの記号として定義されているからなのであって、これがなければ「†」だってプラスなんだろ?と認識されるのである。

 

 

 

 

多分、まず「定義する」「ひとつのものとして認識する」「決める」「区別」みたいな脳の機能がある。少なくとも私には。

 

 


そして、なにからなにまでが、「ひとつの定義」かっていうのが、先人達によって決められてきた。

 

 

しかし、区別さえなければ、この世は「一つの世界」である。
それを、あれはあれで、これはこれで、と区別してきたのは人間である。
さらに言えば、その人間にもひとりひとり違いがあったから、その区別の方法だって違っているはずだ。

 


これは写真もおなじ。
まず、りんごの写真がある。
りんごは、大雑把に定義すれば、果実の一種なのであるが、みかんと区別されるのは、そこに「区別」、「分断」があったからだ。

 

そして、「言葉」と「実物」
これだって、もともとおなじものなのかもしれない。
しかし私は区別して考える。

 

 

 

自分で、見えている世界について「再定義」しよう。

 

 

 

先人達の作ったものなのではなく、自分の感じた区別をおこなっていくこと。
それが、新しい概念を生み出すのである。

 


先人達のつくった、「作曲法」も、「デッサン法」もみんなみんなすべて、その先人たちの「自己表現」に過ぎなかったというワケだ。
いや、この世のなにもかもだ。

 

 

自己表現、それは本来、ひとりひとりがやっていかなければならない。
先人の行った作曲法に倣い、先人の行ったデッサン法に倣い、自分の感じたことを潰していってもよいのであろうか。

 

 

まあただ、人と人が通じ合うには、おんなじことをする必要があった。
おんなじ言語を使うから、話し合える。
おんなじ作曲法をつかうから、議論できる。

 

 


しかしただ、自分のことをまず知らないのに、模倣すらできるのかという話である。
他人の考えを知るには、まず自分自身の感じ方について知っておく必要があるのである。

 

 

 

分子をひとつ定義し、それを組み合わせることによって万物を作り出す。

 

 

 

 

再三言っているが、細分化にはキリがない。
あるモノをひとつの要素にまで分解すること(細分化の極地)など、不可能である。

 

 

 

 

ではもう開き直り、コレでひとつのものです!というものを自分でつくってしまおう!

 

 

 


デジタルは、0と1の集合体である。
これによって、デジタルの世界は展開されていったのである。

 

0と1みたいに、何か作ろう(定義しよう)!!!
そして自分だけの世界を作り上げていこう!!